退屈を住処にするもの

新しい刺激がほぼない生活を、現在強いられているからなのか、なつかしい人ばかりを夢に見る。今朝見たのは、いとこたちの子供の頃の姿。なんとなくだけど、原体験はあのあたりにあるんだろう。長期休みのたび祖父母の家にみんな集まっていた頃。

 

起きている時間に見るのは、後悔の光景ばかりだ。あのときなんでもっとうまく振る舞えなかったのか、痛みを感じられなかったのか、なんという馬鹿だったのか。最近のことばかりじゃない。20年遡るのだってざらだ。記憶が残っている限り。

きっとその時その場にいた人たちは、もう同じ光景を見ない。一生見ることはない。思い出して私をなじったりしない。することも場合によってはあるかもしれないが、いずれにしたって私の手が届くところにはいない。

 

とうに取り返しのつかないこと、失われたものを何度も何度も見返すのは、生産性のないことに思える。…生産性。実生活を泳いでいくのに、効率を考えることは欠かせない。時間もエネルギーもあまりに限られていて、タスクは絶えず降ってくるから。

私がいまの日々に見ているのは、停滞した時間にしか姿を現さない奴なのだと思う。残念ながらとても見覚えがあって、と、いうか、また来たね、5年ぶりだね、ぐらいの親密度である。

 

何度か顔を合わせているうちに、こいつと遊ぶのが妙にうまくなってしまって、退屈も怖くないんじゃないかと思えてくる。一生この空間に住まうのも可能かも。否応なく引きずり出されるんだろうけど。