何にだってなれる時期

昨夜はじめて、30年間日本人として生きてきてはじめて、「耳をすませば」を観た。

主人公たちは中学3年生。14、5歳だ。まず、そんな年頃で、何がやりたいか(とりあえずは)分かっていることに驚く。聖司くんがあんまり現実離れしているので、雫が普通の子のように見えるけれど、そうじゃない。

はじめて書いた物語をおじいさんに見せたときの雫。ぜんぜんうまく書けなかった、だめだと自分でわかっている、と言う。おじいさんに言われるまでもなく大人の私達には分かる。何を焦ることがあるんだ。15歳。まだ何にだってなれるじゃない。

何にだって。何にだって。果たしてそうなんだろうか。掘ってはみたが原石が見当たらず無に帰すということだってあるんじゃないか。雫の恐れるように。

15歳の私に、どういう可能性があったか、あるいはなかったかを考えてみる。プロのバイオリニストや、ピアニストになれる可能性は0に近いだろう(バイオリンは触ったこともなかったし、ピアノは習っていたけれど月並み)。スポーツ選手も無理だろう。「何にだってなれる」は嘘である。

ところで、職場のover 40の女性とお昼に話していたとき(たぶんその時私はまだ27歳ぐらいだった)、「27…まだ何でもできる!」とキラキラした羨望を向けられて戸惑ったことがある。何でもはできない。いわゆるアラサー女のじりじりとした焦りに焼かれていた頃である。

ただその言葉には根拠があって、そのひとがぽーんと仕事をやめてフランスに語学留学したのがその年頃だったのだ。そののちベルギーでしばらく働いている。脈絡なく、そんなことだって、はじめられるのだということ。

多分だけれど、何歳になってもできることはある。きっと思いのほかたくさんある。穐吉敏子は「私もっとピアノが上手くなれると思う」と言って73歳でバンドを解散したのだ。(そういう極端な例を引くとまた自分の内感覚から離れてしまうのだけどいたく感動したエピソードだったから。)

何者にもなれない-何かを突き詰め、極めて生きることはできない-ともうわかっている、その痛みをつとめて忘れ、あきらめて凡庸な現実を生きる圧倒的多数の大人、もちろん私もここに含まれるわけだけれど、そういう人たちこそ、自分に原石があるかなんて考えもせず、負うもの無しに何でも手に取ることができる、ということだってあるんじゃないかな。