人間でありたいということ

インターネットで妊娠やら出産やら子育てやらについて書くのは難しい。もう一文ごとに、これは私の個人的な体験と感情なんだけれど、と留保しないと(していても)、不意にリンチに遭う可能性を排除できない。

子供が欲しくても持てない人が見たらどう思うか考えたのか、そんな産み方、育て方をするとこんな子になる、それは子供が可哀想、云々。ヘドロのような呪いの言葉に足をすくわれる。

そういうことをいったん忘れたふりをして、書いてみようと思ったのは、これだけダイナミックに、期間をかけて、そして制御できない様式で自分の身体が変わっていく体験は、ほかにはあまりないから。あとは病気だけ。

実際、書いては消し、書いては消しているのだけれど、もう、とりあえずいま出てきたものを残してみる。

 

子を持って、ライフサイクルを回すことによる一種の安堵を得たい気持ちと、自分は到底ひとの親になんかなれない、なりたくない、という気持ちは同時に持ちうるものらしい。

行動の自由を奪われることが本当に嫌だった。今だって嫌だ。好きなことを好きなようにできる暮らしは、手放しがたいと思っていた。外出先で乳幼児連れを見かけたら勝手な憐憫の情を抱いていた。私(たち)はこんなに身軽で、こんなに自由。

一方で、いつか(しかもそんなに遠くないうちに)自分たちは子を持つんだろうということも思っていた。願望というより、週末は雨が降るんだろうな、というぐらいの感覚で、そうなるんだろうな、と思っていた(夫は普通に子が欲しいと思っていただろうけど)。

その結果としての今なのだけど、やっぱり現実感が薄いのだ。

いろんな変化はもちろんあって、判明した次の週ちょっと腹痛があるからと出勤前に念のため受診したら切迫流産と診断されそのまま今に至るまで2ヶ月自宅軟禁、外出は通院だけ。体調はすこぶる悪い。

初診時に「今までとまったく同じ生活はできませんから」と言われたのが、身にしみてわかる。

そうなってしまったらもう、与えられた条件の下で過ごすしかなく、というかとりあえず具合が悪く、しばらく何も考える余裕がなかった。今は漸く少し気分の悪さが解消されてきたところで、寝る・食べる・排泄する以上のことが、何かしらの精神活動が、できるようになってきた。

自分の身体に振り回されていて、しかし胎児は自分ではない別の個体、生命体なわけで、どこからどこまで自分なのか、コントロールの効かない身体はほんとうに自分なのか。そんなことも思う。分離した感覚のひとつは多分それ。

もうひとつは、今、極めて動物的なこの機能、体験を言葉にしている営みが、自分の欲求と乖離しているということ。
肉体的、物質的すぎる。描写しようとすると、使いたくない言葉が並ぶ。第一に妊娠という字面が気に入らない。妊婦だけど、そうなんだけど、そうじゃない。それは私ではない。この先もきっと育児日記は書かない。もっと物質にまみれるだろうから。
生きる、というか生存するのは動物としてのヒトの機能を果たすことなんだけれど、言葉を使うのは、そうでないところの、人間としての働きだと思っている。そこにしがみついていたい。

 

ひとのTwitterなんかを見ていると、人間が人間になっていくのは面白いなと思う。
生活のおおかたが動物のそれでも、幼児は幼児なりに、愛と正しさについての真実を求めている。あるいは狡猾さを身につけている。

それを別個の人間として、しかし間近で見ることができるのは稀有だ。

それだけがひとつ、いまとりあえず持てる希望になっている。