薄焼き玉子と詩と英知

冷やし中華はじめました。

錦糸玉子なんて作ってみたりして、案の定大変に苦戦して。卵を薄く焼くのは、少し前に夫がオムライスで挑戦して玉砕していたけれども、思っているより難しい。練習あるのみというのは何でも同じ。

自分ひとりのために薄焼き玉子は作らない(少なくとも私は)。夫のためにだってなかなかやらない。錦糸玉子やオムライスを習得したいと、私が思うのは、きっと子供のため。

"Cooking is LOVE."と言っていたのは、私が卒業したほうの大学の研究室で出会った留学生のお姉さんだ。考えてみれば、自分が食べたいものを食べたいだけ、食べたいように作るというのも、立派な自愛だよなと思う。ひとのごはんを作ることについては言うまでもない。

料理もそうだし、洗濯もそうだけれど、生活の営みのひとつひとつが愛であり、詩である、と思う。集合住宅のベランダのひとつひとつにはためく洗濯物それぞれに、ひとの暮らしがあるし、詩がある。

愛と理性を調和させるのは、アルフォンス・ミュシャによると英知だそうだ(その思想に基づいて"Harmony"と題する油彩画を描いている)。Wisdom brings harmony between love and reason.

理性に傾いていると忘れてしまいそうな(というかたびたび忘れる)暮らしのなかの愛、もうすこしの英知があれば、断絶せずにつなぐことができるだろうか。

医療者になるはずだった者として

めでたく子供を迎えた夫婦が、生後2ヶ月半のその子を連れて遊びに来てくれたので、お産のときの話なんかを聞いた。そこではじめて気がついたのだけれど、立ち会い出産とはいえ、夫が目にするのは妻の顔側だけであって、覆いの向こうで何が起きているのかを見ることはないのだ。当然だけど産婦本人も。一生の中でそれを見る機会があるのは、医療従事者、もしくは将来そうなる予定の者だけである。

私は「向こう」側に立っていたことがある。今から6年前に退学するまで、医学部医学科の学生だったからだ。5年生の終わりまで行って、1年休学した末にやめた。その大学では5年生の7月から臨床実習が始まったので、3月頭に休学するまで、8月(夏休み)を除く丸々7ヶ月間は、病棟にいたということになる。体調を崩しはじめていた1月2月のことは何が何やらもうあまり覚えていないけれど、11月に回った産婦人科や、12月の小児科のことはわりあい鮮明に思い出すことができる。それだけ強い印象が残ったということでもあるだろう。

非常に特殊で貴重な(そして公費を使った)教育を受けておきながら医者にならなかった私は、その社会的投資を無駄にしたことになる。私個人の人生の上で、すくなくともその時点では仕方ないことだったのだけれど、当然一定の罪悪感は持っている。ただ、それを思いきり棚に上げてもう少し大きな単位で考えるならば、別のことも言えるかと思う。

ひとつは、私という1例に関しては、大学病院が教育機関として失敗したということ。実習に出るまで、(特に熱心に勉強する学生ではなかったけれど)やめようと思うほどの苦痛はあまりなかった。試験はつらかったし、3、4年の終わりには再試だらけになったし、なんとか留年しない程度だったけれども、なんだかんだ医学は面白かった(いまも面白いと思っている)。学生として病棟ですごし、初期研修医と行動を共にするなかで、その環境で働くことにどんどん懐疑的になっていったのだ。

もうひとつは、さようにメンタルも志も弱い人間が医師として世に出てしまうのを防いだという点において、大学が安全弁の役割を果たしたということ。たいていの場合、多少いやになることがあっても、損得勘定の上で、医師になることを選ぶだろうと思う。私がやめるに踏み切った要因は、損得勘定が欠けていたことや、体調を崩してからあまり長い期間かけずに判断したこと(休学した年の夏にはもう、別の一般大学の編入試験を受けることを決めていた)、社会的投資に対する責任について重く考えていなかったことなど、いろいろあるけれども、ひとことで言うと幼稚さである。そのような医師をひとり生まずに済んだということ。

 

出産を前にすることで、つとめて忘れるようにしてきたことをひとつ整理できるとは思っていなかったな。もうすこし、考えられることも残っている気がする。どうしたら少しでも、自分の生を通じて、受けた経験を生かすことができるのかとか。

精神の身体性を認めるんだよ

雨、雨、雨で、気温も低いけれど私はすこぶる好調なので、気象病とは縁がないらしい。あるいは弱ったときでなければさほど影響を受けないか。

このところ妙に体調がいい。動いてもそれほどおなかが張らないし、とすればこの3ヶ月以上制限されていた行動範囲を広げられるかもしれないし、そんな展望のもとにうきうきしながら家事なんかこなしちゃって、嘘のようである。

もともと私は引きこもり耐性が高いと思っていた。家が好きだし、一日じゅう布団につつまれている休日が好きだ。そんな日はろくに食事もしない怠惰ぶり。しかしそれは選んでそうするのがいいのであって、来る日も来る日もそうするしかないのはわけが違う。終わりが見えないのもしんどい。

体を動かせば気分が良くなる、ただそれだけのことなのだけど、運動(というか活動)を制限されているのだから打開しようがなかった。今ようやっと、体が許してくれるようになってきたのである。動く。疲れる。気持ちがいい。あぁ精神の、単純なる身体性。

さまざまな理由からぐっと落ち込んで、回復しつつあるときにいつも気がつくような気がする。心も体、体も心。私がそう唱えはじめたのは、10年以上前ではなかったか。それから何度廻ってくれば気が済むのかと思うけれど、毎度新たに、体で気づくのである。

心と体がぴったり合っていること、動きたいように動けること。それは以前の私と同じではないけれども、いまの体に心が追いついたようでもある。

人間でありたいということ

インターネットで妊娠やら出産やら子育てやらについて書くのは難しい。もう一文ごとに、これは私の個人的な体験と感情なんだけれど、と留保しないと(していても)、不意にリンチに遭う可能性を排除できない。

子供が欲しくても持てない人が見たらどう思うか考えたのか、そんな産み方、育て方をするとこんな子になる、それは子供が可哀想、云々。ヘドロのような呪いの言葉に足をすくわれる。

そういうことをいったん忘れたふりをして、書いてみようと思ったのは、これだけダイナミックに、期間をかけて、そして制御できない様式で自分の身体が変わっていく体験は、ほかにはあまりないから。あとは病気だけ。

実際、書いては消し、書いては消しているのだけれど、もう、とりあえずいま出てきたものを残してみる。

 

子を持って、ライフサイクルを回すことによる一種の安堵を得たい気持ちと、自分は到底ひとの親になんかなれない、なりたくない、という気持ちは同時に持ちうるものらしい。

行動の自由を奪われることが本当に嫌だった。今だって嫌だ。好きなことを好きなようにできる暮らしは、手放しがたいと思っていた。外出先で乳幼児連れを見かけたら勝手な憐憫の情を抱いていた。私(たち)はこんなに身軽で、こんなに自由。

一方で、いつか(しかもそんなに遠くないうちに)自分たちは子を持つんだろうということも思っていた。願望というより、週末は雨が降るんだろうな、というぐらいの感覚で、そうなるんだろうな、と思っていた(夫は普通に子が欲しいと思っていただろうけど)。

その結果としての今なのだけど、やっぱり現実感が薄いのだ。

いろんな変化はもちろんあって、判明した次の週ちょっと腹痛があるからと出勤前に念のため受診したら切迫流産と診断されそのまま今に至るまで2ヶ月自宅軟禁、外出は通院だけ。体調はすこぶる悪い。

初診時に「今までとまったく同じ生活はできませんから」と言われたのが、身にしみてわかる。

そうなってしまったらもう、与えられた条件の下で過ごすしかなく、というかとりあえず具合が悪く、しばらく何も考える余裕がなかった。今は漸く少し気分の悪さが解消されてきたところで、寝る・食べる・排泄する以上のことが、何かしらの精神活動が、できるようになってきた。

自分の身体に振り回されていて、しかし胎児は自分ではない別の個体、生命体なわけで、どこからどこまで自分なのか、コントロールの効かない身体はほんとうに自分なのか。そんなことも思う。分離した感覚のひとつは多分それ。

もうひとつは、今、極めて動物的なこの機能、体験を言葉にしている営みが、自分の欲求と乖離しているということ。
肉体的、物質的すぎる。描写しようとすると、使いたくない言葉が並ぶ。第一に妊娠という字面が気に入らない。妊婦だけど、そうなんだけど、そうじゃない。それは私ではない。この先もきっと育児日記は書かない。もっと物質にまみれるだろうから。
生きる、というか生存するのは動物としてのヒトの機能を果たすことなんだけれど、言葉を使うのは、そうでないところの、人間としての働きだと思っている。そこにしがみついていたい。

 

ひとのTwitterなんかを見ていると、人間が人間になっていくのは面白いなと思う。
生活のおおかたが動物のそれでも、幼児は幼児なりに、愛と正しさについての真実を求めている。あるいは狡猾さを身につけている。

それを別個の人間として、しかし間近で見ることができるのは稀有だ。

それだけがひとつ、いまとりあえず持てる希望になっている。

何にだってなれる時期

昨夜はじめて、30年間日本人として生きてきてはじめて、「耳をすませば」を観た。

主人公たちは中学3年生。14、5歳だ。まず、そんな年頃で、何がやりたいか(とりあえずは)分かっていることに驚く。聖司くんがあんまり現実離れしているので、雫が普通の子のように見えるけれど、そうじゃない。

はじめて書いた物語をおじいさんに見せたときの雫。ぜんぜんうまく書けなかった、だめだと自分でわかっている、と言う。おじいさんに言われるまでもなく大人の私達には分かる。何を焦ることがあるんだ。15歳。まだ何にだってなれるじゃない。

何にだって。何にだって。果たしてそうなんだろうか。掘ってはみたが原石が見当たらず無に帰すということだってあるんじゃないか。雫の恐れるように。

15歳の私に、どういう可能性があったか、あるいはなかったかを考えてみる。プロのバイオリニストや、ピアニストになれる可能性は0に近いだろう(バイオリンは触ったこともなかったし、ピアノは習っていたけれど月並み)。スポーツ選手も無理だろう。「何にだってなれる」は嘘である。

ところで、職場のover 40の女性とお昼に話していたとき(たぶんその時私はまだ27歳ぐらいだった)、「27…まだ何でもできる!」とキラキラした羨望を向けられて戸惑ったことがある。何でもはできない。いわゆるアラサー女のじりじりとした焦りに焼かれていた頃である。

ただその言葉には根拠があって、そのひとがぽーんと仕事をやめてフランスに語学留学したのがその年頃だったのだ。そののちベルギーでしばらく働いている。脈絡なく、そんなことだって、はじめられるのだということ。

多分だけれど、何歳になってもできることはある。きっと思いのほかたくさんある。穐吉敏子は「私もっとピアノが上手くなれると思う」と言って73歳でバンドを解散したのだ。(そういう極端な例を引くとまた自分の内感覚から離れてしまうのだけどいたく感動したエピソードだったから。)

何者にもなれない-何かを突き詰め、極めて生きることはできない-ともうわかっている、その痛みをつとめて忘れ、あきらめて凡庸な現実を生きる圧倒的多数の大人、もちろん私もここに含まれるわけだけれど、そういう人たちこそ、自分に原石があるかなんて考えもせず、負うもの無しに何でも手に取ることができる、ということだってあるんじゃないかな。

退屈を住処にするもの

新しい刺激がほぼない生活を、現在強いられているからなのか、なつかしい人ばかりを夢に見る。今朝見たのは、いとこたちの子供の頃の姿。なんとなくだけど、原体験はあのあたりにあるんだろう。長期休みのたび祖父母の家にみんな集まっていた頃。

 

起きている時間に見るのは、後悔の光景ばかりだ。あのときなんでもっとうまく振る舞えなかったのか、痛みを感じられなかったのか、なんという馬鹿だったのか。最近のことばかりじゃない。20年遡るのだってざらだ。記憶が残っている限り。

きっとその時その場にいた人たちは、もう同じ光景を見ない。一生見ることはない。思い出して私をなじったりしない。することも場合によってはあるかもしれないが、いずれにしたって私の手が届くところにはいない。

 

とうに取り返しのつかないこと、失われたものを何度も何度も見返すのは、生産性のないことに思える。…生産性。実生活を泳いでいくのに、効率を考えることは欠かせない。時間もエネルギーもあまりに限られていて、タスクは絶えず降ってくるから。

私がいまの日々に見ているのは、停滞した時間にしか姿を現さない奴なのだと思う。残念ながらとても見覚えがあって、と、いうか、また来たね、5年ぶりだね、ぐらいの親密度である。

 

何度か顔を合わせているうちに、こいつと遊ぶのが妙にうまくなってしまって、退屈も怖くないんじゃないかと思えてくる。一生この空間に住まうのも可能かも。否応なく引きずり出されるんだろうけど。

風鳴りに

風が強い。風が強いと今でもちょっと怖い、という夫の言葉を思い出してふふっと笑ってしまう。

私自身は、叩きつけるような暴風雨を窓の内からいつまでも眺めている子供だった。音も振動も怖くはなかった。雷だけは別だったが、それは自分のところに落ちることを恐れていたからだ。5歳ぐらいの頃、母から「マンションには避雷針があるから大丈夫」と聞いたのちは安心して鑑賞するようになった。

自分の身に危険が及ぶかどうか、その一点だけを気にしていたということだろう。容赦なくプラクティカルな、子供の頭の中。そんな世界を生きていたことを、たまに思い出すし、覚えていたいと思うので、書いている。